青野カ原が“関ケ原の戦い”の本当の場所名だった…歴史の教科書はこんなに変わってる!
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20代ならまだしも30代・40代のビジネスマンが学生の頃に習っていた歴史の常識が、また大きく覆(くつがえ)されようとしています。

事の発端は今月、京都市右京区の陽明文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書が解読された事に始まります。
前久書状(さきひさしょじょう)と呼ばれるその古文書によると、1600年(慶長5年)に起きたとされる関ケ原の戦いの場所は、今のように“関ケ原”と呼ばれていたではなく、「青野カ原」と呼ばれる場所だったというのです。

前久書状には「青野カ原ニテノ合戦」と記されており、当時の人々は「関ケ原の戦い」ではなく、「青野カ原の戦い」と呼んでいた可能性が高い事が明らかになったのです。




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歴史の教科書はこんなにも変わっていた!?


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さて、「関ケ原の戦い」が「青野カ原の戦い」であったという事で、私たちが習った歴史がまた一つ変わろうとしています。
実は今、技術の進歩と共に、昔はテストに当たり前に出ていた歴史上の出来事がどんどんと変わって来ているのです。

「仁徳天皇陵」→「大仙古墳」

仁徳天皇と言えば第16代天皇にあたり、日本書紀にも出てくる人物です。
ちなみに平成天皇こと、今上天皇は第125代の天皇となります。

仁徳天皇の最も有名な逸話の中に、ある日人々の家のかまどから煙が立ち上っていないことに気づき、民が生活に苦労している事を悟った仁徳天皇が人々の租税を3年間を免除したという話があり、その仁徳天皇が眠っているとされたのが大阪府堺市にある“仁徳天皇陵”と言われていたのです。

しかし、この“仁徳天皇陵”は学術的な検証が行われておらず、平成24年以降の歴史の教科書で堺市の大仙町にある事から「大仙古墳」と「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」と表記されているのです。

「島原の乱」→「島原・天草一揆」

島原の乱と言えば1637年に起きたキリスト教の再興を目的とした日本の歴史上最大規模の一揆です。
今の30代・40代の人は「1637年」、「島原の乱」、「キリスト教再興」というキーワードや当時16歳でありながらも総大将であった「天草四郎時貞」(本名:益田四郎時貞)などを覚えたかと思います。

しかし、それから時が経過した今、「島原の乱」は「島原・天草一揆」と呼ばれるようになったのです。
この理由は「島原の乱」が起きたとされる地域は島原よりも「天草」である事が明らかになり、その中心地の名前が無いのがおかしいという判断から「島原・天草一揆」と表記されるようになりました。
ちなみに「天草四郎時貞」の“天草”も旧来天草の領主だった豪族の名前から取ったものだったのです。

鎌倉幕府の成立は「1192年」→「1185年」

歴史に詳しくない人でも、「794(鳴くよ)うぐいす平安京」に加えて、「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」を覚えている人は少なくないでしょう。
しかし、この誰もが知っていた1192年に鎌倉幕府が成立したという常識も今では変わってしまいました。

なんと今の教科書では鎌倉幕府の成立は1185年と変更され、1192年は源頼朝が征夷大将軍に任官した年となっているのです。
この理由は最近の歴史研究で、どうやら1185年の時点で源頼朝が朝廷に全国の守護・地頭の設置を認めさせたいた事が分かり、その時点で事実上の鎌倉幕府が成立していたと見なされたからです。

この他にも細かいところでは「踏み絵」(ふみえ)が「絵踏」(えふみ)に変更されていたり、「大和朝廷」が「大和政権」に変わっていたりと、今の30代・40代の人が習っていた歴史がどんどんと覆されています。

デキるビジネスマンであれば、新商品や新サービスなど新しいものだけに目を奪われるのではなく、こういった過去の歴史の新事実に目を向ける事も大切なのです。

ドイツの名宰相であったオットー・フォン・ビスマルクはこう語っています…
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る。」と。
多少、訳が違うという話もありますが、やはり私たちは新しいものだけに目を向けるのではなく、今回のような故きを温ね新しきを知る姿勢が大切なようです。

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