フィル・ナイト(ナイキ創業者)のプロモーション戦略
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アメリカ合衆国オレゴン州に本社を置くスニーカーやスポーツウェアなどスポーツ関連商品を扱う世界的企業「ナイキ」…
そんな誰も知る「ナイキ」がスポーツ界にもたらしたもの…
一言で言えば、それは“革新”だと言えるでしょう。

1960~1970年代のスポーツ用品市場を席巻していたのは、ドイツのバイエルン州に本社を置くの「アディダス」でした。
しかし、オレゴン大学でマーケティングを学んでいたフィル・ナイトは、「効率的な生産と宣伝を行えば、アディダスに勝てる」と確信…
その第一歩として、「プルーリボンスポーツ」を立ち上げたのです。

そして、1964年の東京五輪で高機能シューズを投入し、数多くのメダリストを輩出した日本の「オニツカ(現アシックス)」と業務提携を結びました。
これでアメリカでオニツカのシューズを販売する権利を手に入れたのです。

将来を嘱望される陸上選手だったナイトのパートナーは、コーチでもあるビル・バウワーマン…
2人は車の後部座席にシューズを詰め込み、学生スポーツのイベント会場でシューズの手売りを行いました。
その苦労が報われ、ブルーリボンスポーツの利益は徐々に増えていったのです。

しかし、会社が拡大するほど、売り上げの一部を支払わなければならないオニツカの存在が負担となってきます。
そこで、ブルーリボンスポーツはオニツカと袂(たもと)を分かち、自社オリジナル製品の開発・販売へとシフトチェンジ…
ギリシャの勝利の女神にちなんで、ブランド名は「ナイキ」としました。

その翌年には、知り合いに35ドルでデザインしてもらったロゴマークを採用…
言うまでもなく、皆さんご存知の「スウッシュ」ロゴでした。

その後、バウワーマンが朝食時にワンフルメーカーを見て思いついたというシューズ「ワッフルトレーナー」を発売…
正方形のブロックが並んだ象徴的な靴底はグリップ力に優れ、瞬く間にベストセラーとなったのです。




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ナイキが社名となった1978年…
同社は後に世界市場を席巻する技術の開発に成功します。

それこそ、シューズのソールにエアバッグを搭載したクッショニングシステム「AIR」です。
かつてないクッション性の高さとエアバッグを強調する近未来的なデザインが受け、以来ナイキのシューズはアメリカの若者たちの定番アイテムとなっていきます。
後に日本でも「エアマックス95」が爆発的に売れ、社会現象となったことは覚えている人も多いでしょう。

ナイトは技術開発のみならず、プロモーション活動でも画期的な戦略を打ち出しました。
当時、スポーツ用品の広告といえば、いかに機能性に優れているかをアピールすることが常識でした。

ところが、ナイキはトップアスリートと自社製品の着用を義務づける契約を交わし、プロスポーツの世界にデザイン性が優れた自社アイテムを投入したのです。
「スポーツ愛好者だけに購入されるよりも、一般人にファッションアイテムとして購入された方が利益は大きい」…
それがナイトの戦略だったのです。

その成功例がマイケル・ジョーダンでした。
ナイトは彼の才能に早くから注目し、プロ入り直後に「年50万ドル、5年契約」という破格の条件で独占契約を勝ち取ったのです。

ジョーダンはすぐに若者のアイドルとなり、1985年に発売された「エアジョーダン」はわずか3か月で7000万ドルを売り上げる大ヒットとなりました。
バスケットコートのみならず、街にも赤と黒のシューズが溢れかえったのです。

アメリカを手中におさめたナイトは、1990年代に入るとや「アディダス超え」、邁進するようになります。
数あるスポーツの中でも欧州や南米、アジアなど市場規模の大きいサッカーは、アディダスの独擅場…
ここを崩すことがナイキの至上命題でした。

サッカー市場においてもナイトの戦略は変わりません。
サッカー王国・ブラジル代表や一流クラブのバルセロナ、マンチェスター·ユナイテッドと大型契約を結びました。

それは、世界中でゲームシャツを売る権利を手に入れたということ…
そうして世界各国のスター選手が着用する先進技術を惜し気もなくつぎ込んだスパイクはサッカー少年を魅了したのです。

気づけばサッカー市場単独でもスポーツ全体でもアディダスの売上高を抜き去り、世界一のスポーツブランドの地位を不動のものとしたのでした。
今や安定企業となったナイキ…
とはいえ野心家のナイトがいる限り、驚きを与え続けてくれるに違いないでしょう。

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