ダイソー社長・矢野博丈のネガティブ発言の真意とは?…

100円ショップのザ・ダイソーを運営する企業…
株式会社大創産業(だいそうさんぎょう)の創業者と言えば、矢野博丈(代表取締役社長)氏です。

「わしには能力がない。だから頑張るしかない。」…
「ダイソーなんて底の浅い商売ですから、やがて潰れるに決まっている。」…
「わしは決断力がないのがよさじゃけ。悩むしか能力がない。」…
これらはすべて100円ショップ「ダイソー」の創業者・矢野博丈氏の言葉です。

売上高は3950億円(2016年3月時点)、国内だけで約2900店舗、日本国外の26の国・地域に1400店舗を展開する企業の社長とは思えないほど、矢野氏は「悲観論者」として有名です。




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1943年、矢野氏は8人兄弟の末っ子に生まれました。
大学は中央大学の夜間部に進み、朝は青果市場、昼は青果店で働いたのです。

学費と生活費を稼ぐためでしたが、もともと商売がやりたかったので全く苦ではなかったといいます。
そして4年生のとき、妻の勝代さんと学生結婚…
ここまではごく普通の人生でした。

矢野氏の人生を大きく変えたのが、大学卒業後に妻の実家の養殖業を継いだことでした。
傾きかけた経営を立て直そうとするも上手くいかず、当時で700万円の借金を背負ったのです。

さらに、お金を借りるよう義父から懇願されたため、妻と2歳の息子を連れて夜逃げを決行…
当時のことを矢野氏は「地獄じゃった」と振り返ります。

その後、東京で百科事典のセールスマンになるものの、成績不振でわずか3カ月半で退職…
それからもチリ紙交換業、ボウリング場勤務、日雇いの肉体労働と転職を繰り返しました。
9回目の転職で移動販売に出会い、1972年に「矢野商店」を創業…
矢野氏が29歳のときでした。

5年後には現在の「大創産業」に名前を変え、すべての商品を100円に…
実は2人目の子どもが生まれ、値札を貼る暇がなかったのが理由だったのです。
こうして「100均のダイソー」は誕生しました。
移動販売をしながら徐々に固定店舗も展開するようになり、1991年には直営1号店を高松にオープンしたのです。

しかし、会社を創業してからもトラブルが次々と矢野氏を襲います。
1つ目は商品倉庫の放火で、商品からトラックまで商売道具がすべて焼失…
警察からは「保険金目当ての自作自演」を疑われるものの、そもそも保険に入っていませんでした。
大きなダメージを受けた矢野氏は、事件後1ヵ月間ふて寝して過ごしたといいます。

2つ目は詐欺事件…
放火事件直後に3000万円の詐欺に遭い、倒産の危機に瀕(ひん)しました。

そして最後は東京営業所全社員の造反…
部下の背信に絶望した矢野氏は「いよいよ、これまでか」と覚悟したといいます。
倒産の恐怖で1週間褐色の小便が出続けました。

それでも毎回、何とか倒産は免れたものの…
この3つの事件が矢野氏の経営哲学に決定的な影響を与えたのは言うまでもないでしょう。




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ダイソーの人気が出たのは100円という値段のみならず、アイテム数が豊富で商品価値が高かったからだと言われています。
アイテム数は多いときで約9万…
在庫も当然多くなるので、「ダイソーは危ない」という評判が立ったことも1度や2度ではありません。

それでも矢野氏は「わしは消費者動向がわからんけ、ようけ置くしかない」と譲らなかったのです。
また、セールスマン時代に自分の営業力のなさを悟ったことから、「営業せんでも買っていただける良い商品」を仕入れました。
自己否定力が強い矢野氏ならではの決断とも言えるでしょう。

しかし、ダイソーにも変化が訪れています。
今は選ぶのが面倒と感じる客が多くなったことからPOS(販売時点情報管理)を導入、アイテム数を絞り込まざるを得なくなったのです。
方針転換について訊かれた矢野氏は「僕のやることは、最近はことごとく否定され始めているんです。」と回答…

経営を語るとき矢野氏がよく引き合いに出すのが、ダーウィンの進化論です。
進化の過程で首が長くなったキリンのように、生き残れるのは自分を変えられる者のみ…
そして生き残るためには、ただひたすら一生懸命頑張るしかないと矢野氏は言います。

矢野氏が自己や現状を否定するのは単なる悲観主義ではなく…
それが自分を奮い立たせるパワーの源であり、不確かな現代を生き抜くための処世術でもあるのでしょう。
エッジの効いたビジネスマンであれば、この矢野博丈氏からもたくさん学ぶものがあるでしょう。

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